Thursday, May 2, 2013

もし名前がなかったら?

名前があるからこそ、自我 (Self) が生じ、
我執 (Self-grasping) が強くなって、
驕り・傲慢、強欲、執着といった自己中心的な心 (Self-centered mind) や
怒り、憎しみ、恐れ、嫉妬、悲しみといった破壊的感情が生じ、
これらの煩悩に苦しみます。

それでは、もし名前がなかったら?
自我が生じませんので、単なる体と心の結合体でしかなく、
蟻や蜂のように、本能と感情だけで生きる、
理性のない社会的動物になります。

自我 (Self) がない無我 (Selflessness) だから、我執 (Self-grasping) は強くならず、
自己中心的な心 (Self-centered mind) や破壊的感情が生じにくくなりますので、
煩悩に苦しむこともなく、意図せず謙虚になって、楽に生きられますが、
もはや理性をもつ尊い人間ではなくなる訳で、
それじゃ、ダメでしょ。

ですから、人間として幸福に生きたいなら、
どうしても煩悩をコントロールできるようになる必要があります。
それでは、何が煩悩をコントロールできるのでしょうか?
それは、他の動物にはなく、人間にしかないもの。
それは、「相互依存」という究極の真理を悟った「意識」が生み出す「理性」。
理性とは、普遍的道徳倫理であり、思いやりのこと。

相互依存を悟ると、無我 (Selflessness)又は空 (Emptiness) になりますので、
我執 (Self-grasping) が弱まり、よって自己中心的な心 (Self-centered mind) や
破壊的感情が生じにくくなります。
と同時に、思いやりの心、温かい心、優しさなどの理性が湧き起こり、
常に穏やかな心に包まれます。
そうすると、心身共に健康になり、ホリスティック・ビューにより本質を見極めますので、
現実的なアプローチが取れ、知能が正常に機能し、
意義深い人生を送れ、幸福になります。

従って、仏教は独立した自我 (Independent self) を認めず(相互依存した自我は認める)、
「単に生命 <意識の連続体:微細な体と心の結合体> に名前を付けただけ」
(Mere designation to the being <the continuum of consciousness: the combination of
subtle body and subtle mind> ) と定義するのです。

参考: http://www.slideshare.net/compassion5151/ss-20961558
         http://www.slideshare.net/compassion5151/japanese-12021021
         http://www.slideshare.net/compassion5151/japanese-12019509
         http://www.slideshare.net/compassion5151/japanese-13071789
         http://www.slideshare.net/compassion5151/japanese-12289436
         http://www.slideshare.net/compassion5151/japanese-13117455