Thursday, September 17, 2015

瞑想や祈り

私たちがエゴ(独立した自己)であるなら、瞑想や祈りは二元的な行動になり得るでしょう。仏教ではそれを二重の執着、即ち主体と客体への執着と呼びます。しかしながら、私たちが本当の自分(独立していない自分)であるなら、本当の自分は「空」(相互に依存し共同発生)によって二元性を超越しますので、二重の執着にはなりません。主体と客体は表裏一体です。主体と客体は二つではなく、一つでもありません。仏教ではそれを非二元性、即ち中道と呼びます。仏教の瞑想、即ちマインドフルネス、集中、洞察は、自分をエゴから本当の自分に変容することを可能にします。一部の人は、自己探求が悟りには不可欠であり、私たちは瞑想だけで悟りを開くことはできないと言うかもしれません。しかしながら、自らの調査と実践を通して、仏教の(ティク・ナット・ハンの)瞑想は自己探求と自己変容を含んでいることを私は発見しました。

仏教やキリスト教の中には、同一次元内で外部へのみ向けられた瞑想や祈りがあるかもしれません。しかしながら、真の仏陀の瞑想やイエスの祈りは、同時に両方の次元(現象界と実体の世界)で、内部と外部へ向けられていると私は理解しています。瞑想や祈りは対象を要します。心の対象は心の投影ですので、エゴが主体であるなら、心の対象は客観的になり得ません。しかしながら、本当の自分が主体であるなら、見方、知覚、注意がなくなり、心の対象はもはや心の投影ではなくなりますので、心の対象は客観的になり得ます。本当の自分はあるがままの現実の本質に触れることができます。本当の自分とは仏性や神の性質のことであり、人間のことではありません。この性質は私たちの本質であり、誰もが、そして全ての物(全ての動物、植物、鉱物)が既に包み込んでいます。仏教では、「無願」と呼び、私たちは既に自分が探しているものであることを意味します。ですから、真の仏陀の(ティク・ナット・ハンの)マインドフルネスは、この本質をもたらします。

「注意は注意を払うものに払われなければならない」の最初の「注意」とは集中を意味し、二つ目の「注意」とは見方、即ち考えを意味すると私は理解しています。見方、即ち考えは、分離、即ち差別、二元性を引き起こします。ですから、私たちは二元性を超越するために全ての見方、即ち考えを投げ捨てる必要があります。しかしながら、本当の自分とエゴは相互に依存し共同発生していますので、私たちは自分のエゴを破壊してはいけません。もし、私たちが自分のエゴを取り除くなら、本当の自分も取り除かれます。本当の自分とエゴは表裏一体なのです。

(参考)http://compassion5151.blogspot.jp/2015/09/blog-post_11.html

悟りを開く仏陀