Monday, December 28, 2015

阿頼耶識

以下は、ティク・ナット・ハン著「太陽、我が心臓」からの抜粋です。

引用:
(偉大且つ完璧な鏡)
1956年、ケンブリッジのトリニティ・カレッジでの「心と物質」についての講演で、理論物理学者のエルヴィン・シュレーディンガーは、意識は単数か複数かどちらであるべきかを問いました。外部からは、多くの心があるように見えるが、現実には一つだけであると彼は結論付けました。シュレーディンガーは、ヴェーダーンタ哲学の影響を受けていました。彼は、心の「算術逆説」と呼ばれるものに非常に興味がありました。私たちが見てきたように、一つと複数の分離は、知覚によってなされた測定です。私たちがその分離の囚人である限り、算術逆説の囚人なのです。私たちが全ての物の相互依存相互浸透を理解する時にのみ、自由になることができます。現実は、一つでも複数でもありません。

Vijftanavadins(仏教の一派)は、「心と対象の完全な統一」を「全ての現象が映し出される鏡」として説明しました。現象なしでは反射はあり得ず、反射なしでは鏡はあり得ません。心を説明するために使用される映像は、「何も覆い隠すことができず、何も隠すことができない、大きな丸い鏡です。全ての現象は、「宝庫」(阿頼耶識)に格納されていると言われています。この宝庫の内容と所有者(知識の主体)は一つです。 Vijftanavadinsの教えでは、阿頼耶識は全ての物理的、生理的、心理的現象の種子(bija)を含んでいます。同時に、阿頼耶識は知識の主体と客体が生じる基盤として機能します。阿頼耶識は空間で区切られたり、時間に限定されるものではありません。実を言うと、空間と時間さえ阿頼耶識から生じます。 

Vijftanavadaの教えに不可欠なのは、知覚の対象について理解することです。知覚の対象は三つのタイプがあります。即ち、純粋な対象またはあるがままの現実(svabhava)心象または概念化された心に浮かぶ対象(samanya-Iaksana)、記憶に残り正しい条件が存在する時に再現する純粋な映像または概念化された対象です。 

(阿頼耶識は一つか複数か?)
もし、私たちが、「誰もが自分独自の阿頼耶識を持っているのか、または私たち全員が共通の阿頼耶識を共有しているのか?」と尋ねる状態であるなら、それは私たちがまだ相互依存相互浸透の本質を実感していないことを示すのでしょう。私たちはまだ、シュレーディンガーが「算術逆説」と呼んだものによって当惑しています。その後、「各人が独立した阿頼耶識を持っていないなら、どうして独立した、個々の記憶を持つのだろうか?」と私たちは尋ねるのかもしれません。

ある子供は経験で教えられ、別の子供はそらでそれを知っていると私たちは言えるでしょうか?の表面で壊れますが、水から離れて存在することはできず、独自の形と独自の場所を持っています。多くの小川は、へ流れ込むかもしれませんが、全ての小川は川と一つになっています。現象というの表面に、多くのが輝くのを私たちは見ますが、各々の波にとっては、形成され、破壊されているのであり、各々の波は他の各々の波に依存しているに違いありません。私たち各人の記憶は、私たち個々人の独自の宝物ではありません。私たち各人の記憶は、他の全ての生きた現実に関連している生きた現実なのです。私たちの体がそうであるように、各人の記憶は終わりのない変容を経験します。それぞれのものが現実なのですが、現実は「一つ」か「複数」かという考えには依存しないのです。  
:引用終わり

(解説)
現象界においては、私たちの体は皆全宇宙からできており、全宇宙は私たちの体全てからできていると私は理解しています。ですから、全宇宙は私たちの体の内部にあり、私たちの体は全宇宙の内部にあるということです。そして、本体の世界においては、私たちの体は、目覚めた意識(阿頼耶識)へ包み込んでおり、その目覚めた意識(阿頼耶識)は私たちの体へ(包み込んだものを)開いていると私は理解しています。言い換えると、私たちの体と心は目覚めた意識(阿頼耶識)に包み込まれており、原因と条件が十分である時に目覚めた意識(阿頼耶識)から生じるということです。

(参考)http://www.amazon.co.jp/dp/B012YZBHHS
http://www.amazon.co.jp/dp/B00WBP308Q
http://www.amazon.co.jp/dp/B01816ZRD4

ティク・ナット・ハン