Friday, January 29, 2016

仏教とベーダンタ哲学

以下は、エゴ(独立した自己)と目覚めた意識に関する興味深い会話です。ラマナ・マハリシは、エゴ、即ち体(物質)とセルフ(目覚めた意識)間の結び目は断ち切る必要があると言いました。

(仏教の観点からの私のコメント):
エゴ(体)と目覚めた意識(セルフ)は、相互に依存して共同発生しており表裏一体ですので、その結び目を断ち切ることは不可能であると私は理解しています。もし、エゴ(体)が取り除かれるなら、目覚めた意識(セルフ)もまた取り除かれてしまいます。それは、光と闇の関係のようなものです。もし、闇が取り除かれるなら、光もまた取り除かれます。問題は、ほとんどの人が目覚めた意識(セルフ)を復活させることなく、エゴだけであるということです。

(ベーダンタ哲学の観点からのコメント):
光が見つけられない一つのものは、闇です。

(仏教の観点からの私のコメント):
そうでしょうか?光(目覚めた意識)は闇(エゴ)を認識できると私は理解しています。

(ベーダンタ哲学の観点からのコメント):
あなたは目覚めた意識ではなく、「光と闇」について話していました。目覚めた意識は全く区別することができません。目覚めた意識はその普遍性において、ある(存在する)のでもなく、ない(存在しない)のでもありません。目覚めた意識(潜在意識)は、意識(顕在意識)が存在する場合のみ、自らを認識します。さもなければ、目覚めた意識は自らが目覚めた意識であることに気付きません。意識(顕在意識)がなければ、目覚めた意識(潜在意識)もないのです。(目覚めた意識は、絶対(アートマン、神)の別の言い方です。)

(仏教の観点からの私のコメント):
仏教とベーダンタ哲学の間で、目覚めた意識の定義に違いがあるようです。私の理解では、目覚めた意識は時間と空間を超越します。ですから、目覚めた意識は同時に現象界と本体の世界に生きることができます。あなたが話していることは、本体の世界の究極の真理に基づいています。そして、私の上記発言(目覚めた意識はエゴを認識できる)は、現象界における究極の真理、即ち相互依存して共同発生(「空」即ち、非二元性)に基づいています。

(参考)http://compassion5151.blogspot.jp/2015/10/blog-post_7.html

ラマナ・マハリシ