Sunday, June 5, 2016

心の対象の中の心の対象の瞑想 (1)

心の対象の中の心の対象の瞑想」に関する次のティク・ナット・ハンのビデオを 1:26:44 ~ 1:32:37 迄ご覧下さい。


以下は抜粋です。

引用:
瞑想の最後の領域、瞑想の最後の対象は、心の対象と呼ばれています。心と心の対象。科学においては、それを「自然」と人は呼びます。しかし、仏教ではそれはあなたの心の対象でしかありません。自然が驚愕であったとしても、銀河であったとしても、それはあなたの心の対象です。自然はあなたの心の対象から独立した何かではありません。これは仏教では非常に重要です。あなたが見るもの、あなたが知覚するものは、あなたの心の対象なのです。

科学では、多くの科学者がまだ意識意識の対象二つの区別されたものであり、意識があって、心の主体はここ(体)にあり、自然、つまり外部の現実の世界を理解するために、手を差し出していると信じています。仏教では、それは最大の誤りです。それは仏教では、二重の執着(貪欲)と呼ばれます。

そして、もし科学者がこのことに耳を傾けたなら、彼らはインスピレーションを受けるかもしれず、究極の現実にアプローチする別の方法を見つけるかもしれないと私は思います。仏教の教えでは、知覚(脳内の概念の連続)は少なくとも二つの部分からできています。(縦線によって二分された円を描きながら)これは分析するための試みです。これは話す方法です。 「知覚者」(左半円)が居て、「知覚されるもの」(右半円)と呼ばれる知覚の対象があります。専門用語では、主体客体です。そして、これ(円)は意識です。そして、意識は主体(左半円)と客体(右半円)からできています。これ(右半円)は「相分」と呼ばれ、これ(左半円)は「見分」と呼ばれています。サンスクリット語では「nimitta bhaga」(右半円)、「darsana bhaga」(左半円)です。主体客体

現象学の伝統では、「意識は常に何かの意識である」ことが非常に明確に記載されていることを、私たちは知っています。ですから、もしあなたが、意識は意識の対象から独立して存在できるものであると信じているなら、あなたは間違っています。そして、この心の二つの部分は、顕現するために互いに寄り掛かります。

それは、このマーカーのようなものです。私たちがこのように(水平方向に)マーカーを持つ時、私たちは左右の区別をします。そして、左は右ではない左を右から取り出すことができ、右を左から取り出すことができる、と私たちは信じています。そして、時々あなたは左を取り除くか、右を取り除きたくなります。たぶん、あなたは右を取り除くためにナイフを使いたいでしょうが、あなたが切断を終えるやいなや、この部分(切断の端)が右になります。なぜなら、があるなら、は常にあるからです。あなたは、右を左から取ることはできません。あなたは、主体客体から取ることはできないのです。あなたは、客体体から取ることはできないのです。主体と客体は、顕現するために互いに寄り掛かります。
:引用終わり

(解説)
有名な量子物理学者のデヴィッド・ボームは、「私たちの見方は私たちの考え方に依存する」と言いました。そして、仏陀の教えは、心の対象は心の投影であるので、心の対象は心そのものであるということです。ですから、両者共同じことを言ったのです。しかし、ほとんどの人は、自然、即ち外部世界の外に立って、自然(外部世界)を独立した実体として観察します。しかしながら、真実は、外部世界、即ち現象界は私たちの心、即ち私たちの知覚(脳内の概念の連続)であるということです。それ故に、私たちの心の状態が、あるがままの現実に触れるための鍵です。もし、私たちの心が穏やかなら、鏡のようにあるがままの現実を映し出すことができます。一方、もし私たちの心が波打つ水のように穏やかでないなら、あるがままの現実を映し出すことはできません。ですから、対象と一つになるためには、私たちは考えるのを止める(思考を停止する)ことにより、穏やかな心を持つ必要があるのです。

(参考)http://www.amazon.co.jp/dp/B012YZBHHS
http://compassion5151.blogspot.jp/2016/04/blog-post_26.html

ティク・ナット・ハン