Wednesday, June 8, 2016

心の対象の中の心の対象の瞑想 (4)

心の対象の中の心の対象の瞑想」に関する次のティク・ナット・ハンのビデオを 1:44:05 ~ 1:47:20 迄ご覧下さい。


以下は抜粋です。

引用:
左と右は今、ここにあり、左も右も顕現するために、お互いに相手方に基づいています。あなたが左を取り除くなら、右もまたなくなります。ですから、神が「光よあれ」と言っ​​た時、光はそこにある必要があります。神は光に出て来るように命じました。そして、あなたは、光が「しかし、私は待たなければなりません」と言うのを聞くことができます。すると、神は「あなたは何を待っているのですか?」と言いました。そして、光は「が来るのを私は待っています。私一人だけでは顕現できませんので、私たち(光と闇)は一緒に顕現するのです」と言いました。すると、神は「しかし、闇はもう既にそこにいます」と言いました。そして、光は「その場合は、私は既にそこにいます」と言いました。ですから、中道全ての反対のペア(対)を超越する方法です。中道は仏陀によって推薦された方法です。

「grahaka、grahya」。執着。これ(grahaka)は執着の主体です。そして、これ(grahya)は執着の客体です。そして、私たちは両方に捕捉されています。私たちは、客体から独立して存在できる主体があると信じています。そして、客体主体から独立して存在できるものであると信じています。ですから、あなたがまだその考えに捕捉されているなら、仏教が「二重の執着」と呼ぶものに捕捉されているのです。そして、それは私たちが「自然」と呼ぶものだけを私たちに思い出させるということです。まず第一に、私たちはそれを私たちの心の対象として認識する必要があります。自然が心から独立して存在できるということを証明する方法はありません。しかし、何人かの哲学者は、「私たちは『自然は心の外に存在できる』というように自然を信じ、捉える必要がある」と言います。しかし、心の外に存在できるものがあるということを証明できるいかなる証拠もありません。

ですから、仏教では、があり、心の対象があるということを、実践者は知っておくべきなのです。究極の現実もまた、心の対象です。心が欺かれている時、その心の対象は現実の偽像です。心が明晰かつ自由である時、究極の現実は自らその正体を現わしまする。ですから、現実に対する私たちの理解は、あなたがどのような心を使っているかに依存します。そして、問題は、科学者がどのように自らの心を整えているか、です。しかし、仏教では、心の準備、心の浄化、心の解放主な仕事です。なぜなら、心が明晰である時、心は自由であり、現実が自ら顕現できるからです。あなたが現実を探しに行く必要はないのです。
:引用終わり

(解説)
体(物質)は意識(心)へ包み込んでいて意識(心)は体(物質)へ(包み込んだものを)開いている、と私は理解しています。ですから、体(物質)と意識(心)は相互に依存して共同発生しており、表裏一体であるということです。また、私たち(人間、動物、植物、鉱物)は皆、全宇宙(水、空気、土、太陽光)からできていますので、全ての素粒子(物質)は意識(心)を持っている、と私は理解しています。

(参考)http://www.slideshare.net/compassion5151/ss-42868476
http://www.slideshare.net/compassion5151/ss-44349564
http://www.slideshare.net/compassion5151/ss-62010528
http://www.amazon.co.jp/dp/B012YZBHHS
http://compassion5151.blogspot.jp/2016/04/blog-post_26.html

デヴィッド・ボーム