Friday, October 14, 2016

二元的な概念と三解脱門 (1)

ティク・ナット・ハンの三解脱門に関する次の記事を深くご一読ください。http://www.lionsroar.com/the-doors-of-liberation-may-2014/
以下は、鍵となる表現です。

引用:
生と死、存在と非存在、同一と異質、到着と出発、などの二元的な概念は、全ての煩悩の基盤です。三解脱門を瞑想することは、私たちがこれらの概念を投げ捨てるのを助けます。

全ての仏教の伝統において説かれている三解脱門とは、「空」、「無相」、「無願」です。これら三つの深遠な真理を瞑想することは、恐れや苦しみから私たちを解放するのを助けることができます。これらは、自由に達する道です。

マインドフルに集中して生きることによって、私たちはより深い現実を観て、恐れ、怒り、絶望なしに「無常」を目の当たりにすることができます。

涅槃は、今すぐ私たちの手に入ります。私たちが三解脱門を瞑想するなら、三解脱門は私たちが本質に触れることができるように、全ての差別的な思考の類から私たちを解放しますので、「空」、「無相」、「無願」は、三解脱門と呼ばれています。

1. 「空」
「空」は哲学ではありません。「空」は現実の説明です。

ちょうど、意識が常に何かの意識であるのと同様に、「空」は常に何かの空(からっぽ)です。

草、花、私たちの内面と周囲の全てのもの、及び私たち自身は、一つのもの、即ち「別々の独立した存在」が空(からっぽ)なだけです。

仏教の教えにおいて、「空」の最も簡単な説明は、次の一文です。「それがあるから、これがある。」花は、花だけでは存在できません。存在するとは、相互に依存していることのみを意味し得ます。自分一人だけで存在することは不可能です。

このように観ていくと、全ての物が「空」の性質を有するということを観始めます。時々、「空」の性質は「無我」と呼ばれます。

私たちが何かを考える時、私たちはその考えです。私たちと私たちの思考は独立していません。私たちが何かを言う時、その言葉が私たちです。言葉の外に話す人はいません。私たちが何かをする時、私たちの行動が私たちです。行動の外に行為者はいません。

ちょうど、私ではない要素のみから私ができているのと同様に、仏陀は仏陀ではない要素のみからできています。 

私たちが、お辞儀する人とお辞儀される人は双方が空(独立した自己が空っぽ)であるということを理解できた時に、意思疎通が完璧になります。これが瞑想です。

私たちが、如何にしてその子供があんな風に行動できるのかを理解できない場合は、子供は独立した自己(エゴ)を有していないことを覚えておくと助けになります。

怒りや執着を持っている人ではなく、この理解を持っている人を私たちの周囲に見うけられた時、(それは「空」の瞑想が引き寄せた結果ですので)私たちは「空」を瞑想する果実を楽しみます。
:引用終わり

(解説)
全ての概念は分離、差別、即ち二元性を引き起こします。ですから、煩悩が生じて人々は苦しむのです。全ての概念は、全てのアイデア、思考、知覚、見方、信念、言葉、言語等と同じです。これらの全ては、自分を守るために、人間のエゴによってでっちあげられます。しかし、私たちが自他を分離した場合、苦しむというのが真実です。ですから、これらはむしろ自己破壊的です。ですから、仏陀は私たちが分離、差別、即ち二元性を止めることを可能にする「空」を説いたのです。 

(参考)http://www.amazon.co.jp/dp/B00WBP308Q

ティク・ナット・ハン